術後の母の体調は順調に回復しているのですが、退院の時期は地元には内緒です。
弟やお嫁さんも一致団結で、いつ退院するのかしつこく聞いて来る地元のおしゃべりおばさんの事は無視しているらしい。
なぜかというと、実家の方では退院の噂が広まると、数人がまとまって自宅にお見舞いに来てくださるのです。 本来は身体を休ませなくてはいけない時なのに、身支度に気を使い、お茶まで出さないといけない立場になってしまうなんて、せっかくのご厚意ながらありがた迷惑というもの。
更に、お見舞いの「御返し」の手配をするのもまた一苦労。 義理に縛られた田舎の付き合いは、本当に大変なものなのです。 大変すぎて、おちおちと退院もできません。
この度の術後数日経った病院に、母の友人が数人まとまってお見舞いに来てくれたそうですが、ここでも母は大いに傷ついたそうなのです。
いつも綺麗なお友達たちがとても華やかにオシャレして来てくれたそうですが、母といえば具合が優れない上に、パジャマ&スッピンでボロボロ状態。
おまけにそんなボロボロの母を「いつもの○○ちゃん(母)じゃないみたい!」などと言ってくれたらしくて、さすがの母も友情を疑ったらしい。 (^-^;)..
逆に嬉しかったのは、遠く離れた友からの、数通のお見舞いハガキだった様です。
お見舞いというのは大変にデリケートなものですね。
幸いなことに、小学生時代に盲腸の手術くらいしか入院したことがない私ですが、病気になった自分を想像すると、友達には弱った姿を見てもらいたくない気がしています。
逆に心身ともに落ち込んで寂しい時に、お見舞いに来てもらう方が嬉しい場合もあると思います。
そういう時は遠慮なく友達に「来てね!」コールすれば、お見舞いする方は嬉しい気持ちで駆けつけられます。
事前のコミニケーションで病人の気持ちを汲み取った上で、「病人を主人公にして、して欲しい事を叶えてあげて、お返しは不要!」というのが、理想のお見舞い道というものかもしれないなぁ..と、お見舞いについて考えるきっかけになりました。
夏の終わりのゴタゴタもひと段落、この週から空気はすっかり秋に変わりました。
コメント
お見舞いに行かなければ!
来てもらっては困る!
よくある状況ですね、こちらは逃げられないし~
隠密作戦、成功するといいですね、、
病状や年代にもよりますが、お見舞いには
来て欲しくない場合の方が多いかもですね。
お見舞いは美徳である様な価値を植え付けるのは、如何なものかです。
その辺を割り切った隠密生活というのは、ちょっとした冒険のようで
面白そうでもあります。(^.^)v
足を骨折して入院、内臓は元気で退屈ッっていうのなら
お見舞いは大歓迎だけど、そうじゃないのは、ちょっと嫌だよね。
結構、家族も大変。
ジジの時もお見舞いを送ってくれたり、色々ありがたいとは思うけど、
お返しを考えたり、正直余計な仕事増やさないでよって気分だったわ。
田舎の大変さは、こないだ本家のお葬式でよくわかったよ。
やっぱりカネゴンもお見舞いご遠慮派みたいだね。
(^_^*)
お見舞いに来て欲しいか、そうでないか、
はっきり言える関係でいようね。
お返しというのも、面倒な風習だね。
私達みたいに、少しの心遣いに対して
お返しは無しね!と言うのが、
一番合理的でスッキリなんだと思うけど。
お見舞いって難しいよね。
要は気持ちがあるかどうか、なんじゃないかな。
そしてその人の気持ちを一番に考えてあげることができるかどうかなんじゃないかと思う。
そしてそういうデリケートな気分の時って人の気持ちがいつもより伝わっちゃうような気がするんだよなあ。
田舎のそういう関係ってちょっとうんざりすることもあり、私もずっと実家の近くにいたら何の疑いもなくそれに従っていたんだなあと思うと、それよりはあっさりとしている松本の住民になってよかったとつくづく感じているよ。
確かに気持ちの問題で、病人をいたわる気持ちが
素直に伝わるのが理想だね。
大切なお友達を病気で亡くしたナオチャだからこそ
思える言葉だね。
同じ長野県でも、松本の方は、私たちの育った田舎
のような土着的な付き合いがないのは良かったなぁ。
私は子供の頃からどうしてもあの空気が苦手で、
大人になったらこの地域からは出ようと
決めてしまってたような気がするよ。